天狗Aの日記

終末世界の広告塔

美少女を見て病む人

こんにちは。

 

友人の誘いでコンビニで働く美少女を見に行くことになった。

 

その美少女とは中学が一緒だったりするが、関係性はないので特に意味はない。

(どちらかといえば友人の方が顔見知りだった)

 

それはそれは可愛らしい容姿だと思う。人当たりの悪さがかえって魅力になるぐらいだ。

客観的に見てもそう思う。

 

そんなこんなで彼女が立つレジでドデカミンを買って、店を出て、そしたら少し涙が出た。

 

感動じゃない。全くもって、むしろ凄まじく不快な感情だった。

 

 

性的対象が女性の人ならば、同じ経験をしたらば大抵は嬉しく感じるだろう。

あるいは如何にしてお近づきになるか、如何にして手にしてやるかなど考えるだろうと思う。

↑これらは主観的に見た世論である。あらゆるコミュニティから省かれている私なので信憑性は低い

 

 

私についてはどうか。それが本題だ。

 

私にとって“女性”とは、概ね意思疎通不可の生物だ。

同性でも言葉に詰まるのに、異性となると単純な人間への恐怖に加えて種の保存に対するプレッシャーがかぶさって息も出来なくなる。

 

・種の保存に対するプレッシャーとは

かっこつけてこんな変な言い方をしているが、要は「嫌われたらどうしよう」という心情の事だ。

同性に対するそういった感情との違いだが、異性に嫌われるということはつまり種の保存の確率が一減る(要は、嫌われたらばその相手とはえっちな事をするのがほぼ不可能になり、つまり遺伝子を残せないということである)ということなので、単純な心情よりも深い生物的感情での恐怖であるという違いだ。

 

 

種の保存への焦りが、かえってその道を阻んでいるオスとして絶望的な私は最終、ある一つの地点にたどり着いた。

 

それはあきらめだ。

 

つまり生物的役割の放棄だ。

ここ一年間の底なしの孤独が、女性への性的感情を恐怖に変換することを可能にした。

 

いや、実際は非常に不安定な物で、そもそも性的感情を抱けるタイミング自体少なかったからこそ可能だったと、今となっては言える。

 

つまりそんな不安定な自己暗示によって己を抑え込んでいた日々の中、詳しくは言えないがとあるバックグラウンドも相まった美少女を混ぜ込んだことによって異常な精神の動きを見せた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

店を出て、デカビタを持って近くの公園で一息ついた。

私は別の人生を想像していた。

その人生の主人公は、特に突出したこともない普通の男子高校生だが、特別出来ないことがあるわけでもない。

本人は自分が平凡であると思っているが、それなりに幸せにしている。

その人生ならばあるいは美少女といたかもしれない。あるいは孤立することもなかったかもしれない。

躁病じゃない、多動症じゃない、緘黙気味じゃなく、睡眠障害じゃなく、空気の読める真人間……、そしてそれは全くもって自分では無いことに気が付き現実に引き戻される。

次に、走馬灯のように人生が流れた。

実に色に欠ける記憶群だった。

 

それが自分だと気付いた。また少し涙が出た。

 

実は現実世界には私はいない。無色透明だ。

私はここにしかいない。

もしも今森で木が倒れたとしても、誰一人として観測していなければそれは起きてないのと同じことだ。

私がすすり泣くのも、観測者は私だけだ。

 

 

 

ワタシダケユウレイ、なんつってw


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↑私の証明写真です。盛れてますね。

 

 

おわり